自分と生きる 今を生きる

いつでも楽しく生きてみる。 心がよろこぶことしよう。

自己顕示欲とうまく付き合う?

FBを見ていると、つくづく思います。

 

承認欲求って、ほんとに強い。

 

私もその一員でしょう。

 

こうしてSNSで発信しているのですから。

 

でも、、揺らがないでいたいと思います。

 

他人がどうであれ、どんな発信をしていようと、自分が心地よいスタンスはなんなの?

 

そんな問いかけをしたいです。

 

比較の中から生まれる安心は、比較の中ですぐに壊れてしまいます。

 

自分がどんなに忙しいか

 

自分がどんなに大変か

 

自分がどれだけ苦しんでいるか

 

そこをアピールせずにいられないのは、

 

なぜか?

 

自分に向き合わない限り、安定した平穏はないんだろうな、、、

 

認められることで得られる安心は、

 

あなたが出来ないことの穴埋めなだけ。

 

自分が自分を本当に愛さない限り、

 

ずっと続くのかもしれない、、、。

 

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認められますか?

 

忙しくない自分を

 

大変でない自分を

 

苦しんでない自分を

 

今の自分が幸せかどうか、測る物差しに、

 

とっても大切なものがあります。

 

 

何もしてない自分を、責めずにいられるか?

 

 

 

です。

 

これが出来ていれば、自分を認めていることになる。

 

何もしてなくても、素敵でしょ?私。

 

認められるのに、条件ないんだもん!

 

こうじゃなくちゃダメ

 

すべきことをしてなくちゃダメ

 

そんなことがないからね。

 

もう一回 伝えます。

 

何もしてない自分を、

 

責めずにいられるか?

 

 

ここだから、ほんとに安心してるかは。

 

これが出来ると、生きてて楽しくなります。

あなたならどんな色をつけるの?

心地よく生きよう!とする空気は

 

まずは自分を大切にね…というメッセージ。

 

ないがしろにされてきたものは、拗ねてたり、グレてたり、

 

素直じゃなくなっているからね。

 

カフェでなにを頼むのか、本当はなにが欲しいのか、ちゃんと自分の心に聞く。

 

グループで食事をするときに、まわりに合わせたりせずに、自分が食べたいものを選ぶ。

 

職場でなにか頼まれたときに、そんな余裕もないのに、何でもかんでも引き受けない。

 

 

日常のさまざまな場面で、

 

たくさんの選択を私たちはしてますね。

 

でも

 

もっと大事にした方がいいことを見落としがち!

 

行動ばかりに気を取られて、大切なことが抜けている!

 

 

それは

 

 

この状況に、どんな感情をもつの?ということ

 

そこを選びとっていきたいです。

 

行動ばかりに気を取られて、感情を野放しにすると、

 

「嫌なこと」は一向に減らないし

 

自分を生きづらくさせている「思考の癖」も

 

抜けないですね。

 

私は新しい場面で、めちゃくちゃ緊張するタイプです。

 

それは、ちゃんとやろうとするから。

 

上手くできないとダメだと思うから。

 

この感情を、野放しにしていると

 

「心地よくないからや〜〜めよっ」

 

となってしまいます。

 

すると、どうでしょう。

 

ちっとも楽しいことが増えない、

 

心地よい方を選んだはずなのに、なんか逃げてる感じがする、

 

これでいいのか?   と自問してしまいます。

 

そこで、

 

行動を選ぶことだけでなく

 

どんな感情をもつかに

 

ものすごく敏感になりました。

 

自分の感情にフォーカス。

 

するとなにが起こるかというと、

 

 

自分を俯瞰できるようになる。

 

 

私、いつもの癖で不安から逃げようとしているな…

 

不安になるのは、上手くやろうとするからだ…

 

できなくて当たり前なんだから、この私でいいじゃないか…

 

リラックスして、自然体で、いればいい…

 

自分で自分を評価するのはやめよう…

 

 

こんなふうに考え方が切り替わります。

 

そして、結果、感情が変化しています。

 

私はこれでいい

 

この気持ちでいけるのです。

 

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そもそもなんで生きづらかったり、

 

苦しかったりがあるのか、

 

自分の心にどんな色をつけてるのか?によることも、多いのですね。

 

素直に生きるって

 

自分を飾り立てることでも、誤魔化すことでも、我慢させることでもないですね。

 

 

自分の心にどんな色をつけてるのか?

 

 

最近、つくづくそう思っています。

 

 

 

支えてもらうのか依存しているのか

誰にもなににも頼らずに生きていくことは可能なのか?

 

と、問われたら。

 

細かく厳密には不可能なんだろうけど、

 

個人の感覚としては、「頼らずに」は可能な話だろう。

 

でもそれが、人間らしい生き方かどうかは、また別の話。

 

生きてて楽しいかどうかも、問いかけたいところ。

 

そもそもなんで冒頭のような問いをするのかというと、

 

できれば頼らずに生きていきたいという、

 

そんな考えがあるから、でしょう。

 

なぜ?そうしたいの?

 

 

他人になにかを期待したくないから

 

 

なのでは?

 

 

他人は考えを変えることも

 

行動を変えることも

 

約束を破ることも、、

 

起こりうること、だから。

 

 

そのことを、、自分の視点だけから見ると「裏切られた」となる。

 

そうなりたくないから

 

頼らずに生きていこうと、

 

思うのでしょう。

 

 

ここで、見落としていることが、ある。

 

人間らしく生きるとは、

 

他者との、心地よいも悪いも含めた関係性があることなのだと思うのだけど。

 

見落としていることは

 

支えてもらうことと依存することでは、

 

自分の軸足がまったく違う、ということ。

 

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支えてもらうというのは

 

あくまで軸足は自分にある。

 

自分の足で立ちながら、その時々で支えてもらったり

 

あるいは支えたり、がある。

 

けれど、依存することは違うね。

 

軸足は自分にない。

 

相手に任せ切ってしまい、他人の足で立っているようなもの。

 

そして、結果や経過に対する責任までも

 

他人に押し付けた状態だ。

 

 

それって、、、、迷惑だから

 

 

人間どうし、支え合っていくのは

 

あたたかな触れあいと繋がりを生む。

 

そこでさらに認め合えれば、

 

関係性から互いの人間性を高めていくこともできる。

 

でもね、、、、

 

依存するのは、自分の人生に対する責任放棄。

 

人生の主役を、他者にお任せしちゃうこと。

 

それ、ほんと無責任なことだし、迷惑。

 

 

だったらなんの文句も言うんじゃないよ!

 

 

そう言われても仕方ないこと。

 

でも、依存する人は、かなりの文句言いでもあることが多い。

 

なぜって、無責任だからね。

 

なんとでも言えるし。

 

依存してる自覚があろうがなかろうが、

 

責任のないことに対して、軽い発言をし易いのは、人間の常。

 

 

依存は 自分にも相手にもいいことはない。

 

 

やめとけ

 

 

 

というお話しでした。

 

 

ここまで読んで、誰かの顔が浮かんでいるのなら、

 

自分の軸足がどこにあるのか

 

ちょっと振り返ってみよう。

 

 

 

いつも同じでなくていい

ぶれない自分になりたいと

 

よく耳にします。

 

怒ったり、傷ついたり、悲しんだり、

 

感情は揺れながら、存在していますね。

 

ぶれたくない…

 

たしかにそうです。

 

だって、戻るのが大変ですから。

 

大きくぶれればぶれるほど、

 

戻るのに時間もかかるし、かんたんにはいかないですね。

 

でも、ぶれるのは、悪いことでしょうか。

 

ぶれるのが、当たり前ではありませんか?

 

ぶれても、いいのじゃないですか?

 

「感情に振り回されてしまうのがイヤ!」

 

大きく感情が揺らされて、しんどいのなら、

 

休むことです。

 

あぁ、わたし、しんどくなってるな、

 

つらい、と思ってるな、

 

そう感じたら、

 

すぐに自分を休ませてあげることです。

 

そして、なにがそんなに心を揺らしたのか、

 

のぞいてみる。

 

「ほんとはこうして欲しかったのに、そうじゃなかった」

 

「そんなこと言われたくなかったのに、傷ついた」

 

「また昔からの癖で、考えすぎていた」

 

「そんなつもりはなかったのに、ひどいことを言ってしまった」

 

 

いずれにしても、

 

心が望むこととは違ったことに、

 

揺れてしまったのですね。

 

じゃあ、自分は

 

なにを望んでいたのか?

 

どうありたかったのか?

 

本音は、なんなのか?

 

そこは、自分を知る、チャンスです。

 

ぶれちゃいけない、ぶれるのは自分が弱いからだ、なんて

 

そこだけを気にしていると、

 

常に自己否定がつきまといますが、

 

ぶれたときには、自分の本音を知るチャンス、

 

そう思えば、心の内側をのぞくことが

 

できるように思います。

 

私は彼とやさしい会話がしたかったんだ、

 

私は褒められたかったんだ、

 

頑張ったことを認めて欲しかったんだ、

 

傷ついている心は、

 

小さな声で本音をしゃべりつづけています。

 

耳をすまさないと、なかなか、

 

聞こえてこないかもしれないのです。

 

ぶれてもいい

 

いつも同じでなくていい

 

生きているとは、揺れながら、なのですから。

 

その揺れ方そのものが、

 

美しくもあり、その人らしさとも言えるのですから。

 

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心の変化をどうすれば起こせるの?

安心すると、こんなにも気持ちが軽くてラクなんだな…

 

そう思いました。

 

安心すると余裕ができて、日常の生活はもちろん

 

自分のことにもちゃんと手間暇かけてあげられるものなんだな…

 

そう思いました。

 

そして、はっ!

 

気がつきました。

 

「 安心 」

 

これは、普通にしていて、なんとなく手にできるものじゃないんですね。

 

じゃあ

 

安心するためには、

 

どうすればいいのか?

 

 

それは、変化することだったんです。

 

 

安心する前には、安心していなかった時の状態があって、

 

そこが変化したから

 

安心できたのですね。

 

変化には2種類あります。

 

恐れや不安など、「なくなった」から安心できた。

 

愛情やお金など、「手に入れた」から安心できた。

 

なくなったから、安心した…

 

手に入れたから、安心した…

 

なにをなくしたのか、

 

なにを手に入れたのか、

 

そこをよく見ると、自分が人生の中でどんな優先順位をつけているのかが

 

見えてきます。

 

これは、大事なことです。

 

自分にとっての大事なことを発見するなんて

 

実はかなり、難しいです。

 

私の人生に、ほんとはなにが大切なのか?

 

この指針がはっきりとすれば、

 

なにをすればいいか?というより、

 

なにが必要ないのか、

 

なにをしなくていいのか、

 

そこがはっきりします。

 

今まだ、安心を手にできていないとするのなら、

 

安心ではない自分が、なにを抱えているのか

 

なんに囚われているのか

 

ちゃんと文字にしてみると、発見があります。

 

 

 

不安がある。

 

なぜなら、行動できていないから。

 

それは、行動しなくちゃ、という考えがあるから。 

 

 

嫌な思いが塊のようにある。

 

なぜなら、表現しきれていない怒りがあるから。

 

それは、怒りの矛先の相手へ、本音を伝えきれていないから。

 

 

苦しめているのはなんだろう?

 

 

変えていけばいいのはなんだろう?

 

 

人は、見えたことから、気がつくし

 

気がつけば、その発見から、

 

変化が起こります。

 

 

人生に変化を起こすのは、

 

「私」を素直に見ていくことからですね。

 

 

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安心という生きる力

不安や不満を抱えながら

 

人はそれでも「こんなもんかな」と

 

生き続けています。

 

私は、自分がとても辛かったときに

 

生き続けなくてはならない、ということが

 

実は、なによりいちばん苦しいことなのではないか?

 

そんなふうに考えていた時期がありました。

 

どう対処すればいいかわからないこと、

 

そのことを考えるだけで苦しくなってしまうこと、

 

そんなことだらけで、頭の中も心も、

 

占領されていたからです。

 

ただただ、なんとかしたい、なんとかならないものか、

 

もがいてるだけの日々でした。

 

そのころ、得たいと願っていたのは、

 

「 安心 」でした。

 

安心って、なんだろう…

 

このままで大丈夫、という、

 

確信みたいなものなのでしょうか。

 

このままの私で大丈夫

 

今のまんまで大丈夫

 

今大変だとしても、きっと大丈夫

 

そんな、未来への確信、なのかな、と

 

思います。

 

安心は、生きる力を生みますね。

 

そこに希望が加われば、

 

さらに前に進む力になります。

 

混沌とした苦しみの中で、何を解決したら安心できるのか?

 

何を手にしたら安心できるのか?

 

ほんとの答えは、その人にしか、わかりません。

 

はっきりと、自信を持って言えることは、

 

苦しみは、その人の何かを手放すことで、

 

ずいぶんと楽になる、ということです。

 

楽になるというのは、苦しみがそれほどのことでもなくなるということ。

 

何を手放すのか?

 

過去への思いなのか、植えつけられた価値観なのか、固定化された思い込みなのか。

 

現実はそのままであっても、

 

心の中での受け止め方が、変化することで、

 

いや、実際はそれでしか、

 

苦しみから解放されることは、ないのかもしれませんね。

 

現実をどうにかしようと格闘する方が、

 

苦しみはさらに、増していきます。

 

何が、そのことを苦しみとしてしまっているんだろう?

 

私の心の中の、なんなのだろう?

 

そんなふうに見つめることで、

 

安心への入り口に立てるのでは、ないかな、

 

そう思います。

 

「 安心 」

 

生きていていいよ

 

大丈夫だよ

 

そのままで

 

このままで

 

いいんだよ

 

「 安心 」を手にして、

 

人は、その人らしい輝きを取り戻す。

 

輝き始めたら、思い出せるのですね、

 

あぁ、これが、私だ…

 

これが私だったんだ…

 

そう、

 

その人らしく生きるために

 

安心は だいじ。

 

子供にとっても、大人にとっても、

 

その意味は変わりがありません。

 

あなたが安心するために、

 

何を手放せばいいのか?

 

囚われているものがあるとするのなら、

 

自分を見つめることで、なにかに気がつけるはずです。

 

外側の原因は、ほんとの原因では、ないのだから。

 

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なんのために?

穏やかな心でいられることは、

 

何にもまして、しあわせなことです。

 

なぜ自分がそうなれたのか、

 

なぜ以前はそうではなかったのか。

 

喉から手が出るほど欲しいと願っていた

 

この穏やかさ。

 

ここまでくるのに、いったい何十年かかったんだろう。

 

そしてこれでゴールというわけではなく、

 

大変なことが起こらないというわけでもなく、

 

変わらない日々…けれども昔とは違う私で、

 

またコツコツと、生きていくのですね。

 

ビフォーアフターをちゃんとみることは、

 

この先のなにがしかのヒントになるでしょう。

 

 

 

今はっきりと言えるのは、

 

人はなんのために生きるのか?という

 

はじめの一歩のような問いかけに、

 

明確に、確信を持ってこたえられらように、なったこと。

 

 

 

自分をしあわせにするために

 

このシンプルな目的のために

 

私たちは生きているのだと思います。

 

だからこそ、学びと言われることを

 

繰り返していく。

 

自分という人間を

 

どんな思い込みが作り上げているのかを

 

目を逸らさずみていく。

 

私たちが学んでいるのは

 

愛し方  ですね。

 

愛してほしい、認めてほしい、受け止めてほしい、

 

そんな気持ちにがんじがらめになって、

 

満たされなくてもがいているのは、

 

自分が 自分を

 

愛してない、認めてない、受け止めてない。

 

それだけです。

 

ここを、嫌になるほど思い知って、

 

私はそれらを他人に求めることを

 

やめました。

 

たとえ、どんな最悪な環境であっても、

 

 

それが理由で人生を決められることは

 

 

ありません。

 

 

そんなことはない、あんなふしあわせな家庭に育ったのだから

 

私がこうなってるのは仕方がないのだ

 

 

そう、考える人は少なくないかもしれませんね。

 

 

そんな一面もあります。

 

 

でも、一面だけですよ。

 

 

それをすべての理由には

 

 

できないし、ならないです。

 

 

それを理由にして、なんとかしてくれと叫んでいるのは、

 

 

本人なのだから。

 

 

満たされないまま育ったことは、

 

 

それ以上でもないし、それ以下でもない、

 

 

そうだった、ということです。

 

 

そこまで俯瞰できると、

 

 

傷を抱きしめてしがみついてたのが、

 

 

自分だったことが見えます。

 

 

ふしあわせになるための絶対的な条件も

 

 

しあわせになるための条件も

 

 

万人共通にはないですよね。

 

 

ただひとつ、だけです。

 

 

自分を愛すること

 

 

大地に水と栄養を与えるように、

 

 

豊かになるものを与えていくだけ。

 

 

それが、自分への愛だと思います。

 

 

自分の大地を豊かにしますか?

 

 

それとも貧弱で乾き切ったまま、

 

 

誰かがなんとかしてくれると思い込んだままでいますか?

 

 

人は、自分をしあわせにするために、

 

生きています

 

その過程でまわりの人や社会に、愛が届けられていく。

 

人のため、社会のためが先ではないですね。

 

耕せるのは自分の大地だけであり、他人のではありませんから。

 

自分の大地に

 

自分という樹を育てて、

 

その果実が誰かをしあわせな気持ちにすることは

 

あるでしょう。

 

どんな樹を育てるのか

 

そのためには大地を豊かにして

 

どんな種を蒔くのか

 

向き合うのは自分の人生、

 

そこにしっかり、取り組んで生きたいです。